そこにいる

街で生活をしていると経験する足早な人との出会い。高校生の頃、クラスメートや身の回りの人々の写真を撮る事から僕は写真を始めた。それは言うならば自分の属する世界をもう少しだけ、もう一歩だけ深く理解するために必要なことだったような気がする。それから時間が経って、今僕はもう一度そのあたりへ戻って、ただ写真を撮りたいと思った。明確な態度表明も、答えもない。しかしそれは、悲観的というよりむしろ肯定的で、かつてないほどに楽観的だ。そこにいる、ということだけでいい。




Encounter Magazine 写真家放談 蓮井元彦 コラムより

写真を撮るようになったのは高校2年の頃だった。僕は工業高専の電気工学科に通っていた。子供の頃から手を使って物を組み立てたりするのが好きだった僕は、受験のギリギリまで工業の道へ進むかデザインの道へ進むかで迷ったのだが、実際に組み立てる工程が好きだったという理由から、工業高専を選んだ。

2年生くらいになってプログラミングなどの授業が始まるとプログラミングには正解が必ずあるということ──今思えば、突き詰めた先にはきっと表現の世界があったのだろうけど──に違和感を感じて、写真部に入った。高校生の頃に初めて作った写真集はクラスメートやバイト先の知り合いの写真をまとめたものだった。 

それからずっと写真を撮り続けている。 

写真は難しい。

写真の良し悪しというのは、正直、今でもわからない。そこには目には見えない何かがある。または、言葉にはならないと言った方が適切かもしれない。

視覚芸術に分類される写真は、文字通り全て視覚的に見えているはずなのだけれど、写真を観ること、また撮ることにはどうもそれ以上の勘のようなものがつきまとっているように思えてならない。 写真を観ているようでいて、実は写真ではなく、写真に写っているものを観ている。だから観る人の生い立ちや人生経験によって左右される。

例えば猫の写真を観た時、人は昔住んでいた実家の近所に似たような猫がいた光景を思い出すかもしれないし、姉が猫に噛まれた恐い記憶を思い出すかもしれない。

写真に写っている「猫」はその「猫」であると同時に、他の「猫」を想起させるきっかけとしての記号としても働く。それは写真において避けては通れない、いわば本質のようなものだ。

写真を撮る時に視覚的に判断をしないようにする理由

それを前提に考えた時、写真の良し悪しと言うものはとても判断するのが難しい。それは構図が良いとか、質感がどうとかそういったフォトグラフィックなベクトルの話ではないからだ。

だから、写真を撮る時にあまり視覚的に判断をしないようにしている。写真は視覚でのみ感じることができる筈なので、これはとても不思議なことなのだけれど。 

ポートレートで例えるならわかりやすい。人物写真においてフォトグラフィックな情報はあまり重要ではないと考えている。ここでのフォトグラフィックというのは作画的という意味においてだ。

作画という要素は現実世界が写真になった途端に不可避的に発生するのだけど、僕はそこに疑問を持っている。なぜなら相手が人間である以上、作画には限界があるからだ。

人間を止めておくことはできない。人の表情は1秒毎に変化していくし、変化には必ず理由がある。しかしその理由を言語化することはできない。その表情や身体の微妙な動きから、より直感的に、より動物的に感じ取れるものに僕は興味を持っている。人物写真が上手な写真家は、いわば魔法使いのようなものだと思う。 

僕にとって良い写真は、正直な写真かもしれない。

静物写真の場合、気をつけていないとどうしても作画的になってしまう時がある。静物は人物と異なって変化のスパンが長いのだ。街の変化を感じられるのは数年単位だったり、植物などは数時間であったりする。

そんな場合でも、僕は自分の心境の変化に敏感になるようにしている。自分の心境は表情と同じく刻一刻と変化する。対象のものに向かい合うときは自分の心境に正直でいるように心がけている。 嘘をついても写真には写ってしまうし、写真を見る側の人間が必ず嘘を見抜いてしまう。それだけ人間の目は厳しい。 

写真の良し悪しについて言うと、僕にとっての良い写真は、正直な写真かもしれない。美しい世界を見せようとする意図は全くない。世界が美しいかどうかに興味があるわけではなくて、自分が属する世界そのものに興味がある。心境や置かれた状況、また写真を観る人によって、自分が属する世界は変わるからだ。

記録ではなく、記憶として

写真は記録ではなく記憶として捉えている。

これは僕が撮る写真の一貫したテーマのようなものなのだが、記憶というものは本当に興味深い。親しみ、哀愁、愛着、それらは僕たちにとって大切な感情で、記憶がなければ感じられない。写真を楽しむということは記憶という概念と経験の上に成り立っていると感じる。
 
9月12日より開催する半山ギャラリーでの展示「そこにいる」はポートレートを中心に構成した。僕は人に惹かれて写真を撮っている。街の写真もよく撮るが、それは街も人を表していると思うからだ。植物の写真も撮る。植物も街には欠かせないもので、人の住む家の周辺に置かれたものなどを見ると、人を見る以上に人を感じることがある。

時に無機的で殺伐とした都会の風景には自由気ままに咲いた花や青々とした草木に妙に惹かれることがある。それも全てそこに人がいて人の生活があってのことだ。ポートレートは自分の写真にとって欠かせないものだが、今まで行なった展示や制作した写真集では一連の風景や静物写真の中に象徴的にポートレートを配置する構成をとってきた。

今回は点数ほど多くないものの、ポートレートを中心に構成した。それはもともとクラスメートや身の回りの人々の写真を撮ることから始めた自分をもう一度見つめ直そうと思ったからだ。街を歩いていて不意に出会った人や、保険屋の営業マンや近所の知り合いを撮らせてもらった写真だ。 写真という装置は現在の自分と社会との間に存在している。他者の写真を撮る時に大切だと感じていることは自分自身に素直になることだと思っている。

生い立ち、境遇、時には性別も異なる他者を理解することは到底できることではないと思っているが、自分を理解することは努力すればできるかもしれない。自分自身と向き合うことができれば他者とも向き合うことができるのではないか、と信じている。 

写真を始めた10代の頃から今まで経験してきたことをもとに現在(いま)思っていることを話してきたが、やはり写真は難しい。「これはこうで、あれはああで」というふうにはいかないし、これが正解だということも無い。

正解があるとすれば、自分にとっての正解を見つけることではないか。言うのは簡単だが、そんなに簡単なことではない。それで良いと思う。見つからないときは見つからないという写真を撮っていれば良い。そして、うまくやる必要はない。僕が大事だと思うことはずっと探している、それを表現しているということだ。

それ以外の近道はないと思うし、簡単ではないからこそ面白い。矛盾に満ちているこの世界で、何を、どう表現できるのか。それがきっと僕が写真を必要としている理由なのではないかと思う。 



沈黙と(新しい)花

大変だったコロナも終わり、私たちは日常を取り戻した。2020 年 4月、最初の緊急事態宣言下の 1 ヶ月間に近所をふらふら歩いて撮った非日常に咲く花の写真が、僕のアトリエにあった。どこかで展示したいな、と思った。複写という原始的な手法を使って、 2023 年、古くも新しいその花々はここに蘇る。



VIATOR / SWELL

私は旅人を想った。行く宛てが分からないから私たちは恐れる。目的や意味が分かってしまったらどんなに楽か。しかしそれは無理な話だ。例え1秒先の未来でさえも知ることはできない。そしてそれが故に皆奮闘し、残された時間と格闘する。誰も出発点へ戻ることはできない。旅は骨折りだ。そして人生もまた骨折りである。私たちはまるで旅人のようだ。

I thought about viators. Afraid because we don’t know where we are going. It would be so easy to know our purpose and meaning. However, that’s not possible. For we can’t even know what one second in the future holds for us. That is why we worry and struggle with our remaining time. We cannot start over. The journey becomes a toil, life becomes a toil. We are all like viators.



Midtone

ミッドトーンとは色調の中間域、つまり白から黒までの間にある微妙なグラデーションを指す言葉である。僕はつねづねそれを意識しながら写真を制作している。

多くの事象について単純に白と黒ないしは明と暗、どちらかに分類することは難しい。さまざまな色彩や濃淡がより複雑に絡み合う中間のグラデーションの中にこそ僕はより人間的な何かを見出したいと考える。

それは時にあまりに些細であいまいな感情であるがゆえに、声にはならないかもしれない。しかし僕は、それでも尚、自分の心の中に耳を傾ける。



写真はこころ

「お店の雰囲気が良いので写真を撮って良いですか?」と聞くと、「建築やっている方?」「写真です。」「いいわよ。」僕は何枚かの写真を撮った。

福岡に仕事で行った時の事だ。駅から今風の繁華街を抜け、裏路地を散策していると曲がり角を曲がったところにいかにも昭和喫茶という感じの喫茶店があった。テーブル席が十五席くらいとカウンターが十席くらいの店で、サラリーマン風の客が五名ほどランチを食べている様子だった。僕は珈琲を注文した。

喫茶店のおばちゃんは数十年、女手ひとつで店を切り盛りしてきたそうだ。 「取材とかも来るのよ。」と言いながら何冊かの雑誌を見せてくれた。「写真を撮られるのはあまり好きじゃない。だから大体は断っちゃうのだけどね。」と言った。

古びた店内はどこか懐かしく、作りの良いテーブルや椅子が使い込まれていた。

おばちゃんは店のことや街のこと、夫のことなどを話してくれた。僕は一通り店内の装飾や雰囲気を撮り終えると「今度はおばちゃんの写真を撮らせてください。」と頼んだ。照れ臭そうに「私はいいわよ。」と言って断ったが、何度かお願いをすると最終的にはお許しをいただけた。カウンターの前に立ってもらい撮り終えると、どことなく嬉しそうにしていた。

帰り際に「写真はカメラじゃない、こころよ。純粋なこころを忘れないで生きていってね。」と言った。おばちゃんの目は強くて優しかった。 いつまでも元気でいてほしいと思った。

店を出て川を渡ると小さな公園があった。僕は立ちどまって、さっきの喫茶店のことを考えた。

東京に帰ってもおばちゃんの言葉は僕の中に漂い続けた。 そして、それはずっと消えてしまうことはないだろう。



川のそばで

川や河川敷とはどういった場所だろうか。

子供と遊ぶ場所。川の流れを眺める場所。鳥たちを観察する場所。物思いに耽る場所。ゴミが捨てられてしまう場所。ゴルフをする場所。ホームレスが生活する場所。暇を潰す場所。自分とは関係のない場所。今まで生きてきて、これと言って考えたこともない場所。
他のどんな場所とも同じく、人はそれぞれ違ったことを思い浮かべるだろう。

僕が河川敷を撮り始めたのは今年の年始。実家の国分寺に帰省した帰りに多摩川の河川敷の横を車で走った。その日の夕焼けは黄色とオレンジの絵の具が混ざったような色をしていて、僕は思わず脇のコンビニに車を止めた。そして、大変な勢いで走る車の流れの隙間を渡った。川の流れはいつもの多摩川という感じの穏やかさだった。

多摩川の現在の丸子橋付近は昔は川幅が狭く急流であったらしい。橋ができる昭和9年まで「丸子の渡し」と呼ばれた船で乗客や物資を対岸の川崎に渡すのはなかなか大変だったそうだ。それから徐々に都心のコンクリートの建築用材のために多摩川の砂利が掘られ続けた。その結果、川幅が広くなり川の流れが今のように穏やかになったそうだ。

コロナ禍で遠出をしずらくなった。それでも人の自然への渇望というものはやはり変わらず身近な自然へ引き寄せられる。そして最も身近な自然の一つが川だ。川は昔から周辺の人々の生活に寄り添ってきた。ロンドンであればテムズ川や学生時代によく通っていたイーストのリバー・ リー、パリであればセーヌ川だろう。それぞれの都市に川があり今も昔も多少の様相は変わっているが本質は変わらず、これからもきっと変わらない。

これらは川に集まる人々や河川敷そのものの写真であり、都市というものの中で残された自然に引き寄せられる自らの動物的な衝動を風景や人々、草木に重ね合わせたものである。また、それと同時に多摩川・丸子橋付近の現在の記録である。



Marianna

8⽉の暑い⽇、僕とマリアンナは山梨の湖畔にいた。
キャンプ場のオーナーは汗を流しながら⼤きく⼿を振って、⾞を奥のロッジの前まで誘導してくれた。
ロッジの前でマリアンナを待っている時、僕は煙草を吸った。外国⼈観光客の横を通って湖の反対側を⽬指して歩いた。湖の辺りの⼿すりには⽶粒ほどの⼩さな⾍がとまっている。花や草⽊は⾵に揺れている。容赦なく照りつける太陽から守ってくれるように⽊々の葉は空を覆っていた。
湖の⽔は静かに⽣き物の営みを助け、⽔⾯はキラキラとしていた。
マリアンナのお⽗さんはアメリカにいて、いつか会いに⾏きたいと彼⼥は話した。

と或る年のと或る⽇にどうして僕はマリアンナという⼈と⼭梨の湖畔にいるのだろうか。
⼈と⼈が出会い、ともに時間や空間を共有するということは不思議なことだと思った。それはいつか記憶となって⼼の中に残るのだろうか。
そして、僕は彼⼥のそのあどけない笑顔をファインダー越しに追いながら、ぼやっとした遠いアメリカの⾵景を思い浮かべていた。



for tomorrow

景色はその時の気持ちによって表情が変わります。
そして僕はそんな気持ちのフィルターのかかった景色を追いかけます。

故意に写真を撮りに出かける時に撮れるだろう写真とはまた異なる写真がきっとそこでは 存在するのだろうと思います。

僕は時折匂いのようなものに敏感になります。
匂いとは鼻で感じるそれではなく、気持ちで感じる匂いのことです。街の匂いや人の匂い、生活の匂いなどに惹かれて出かけます。
知らない街にただ嗅覚に頼って出かけてみたりするのです。

行く先にはもしかしたら何も無いかもしれないけれど、思い切って行ってしまえば想像していなかった何かに出会える。そして、僕の気持ちと目の前の景色が同調して、その時もしカメラが肩にかかっていれば、シャッターを切りたくなるのです。(と言ってもカメラ を持っていない事は稀有なのですが)

気持ちのフィルターというのものは存在しているのか、それは写真に写るのか、ただの思い込みなのか、そんな疑問へ対して自問自答すること自身が僕には一つの創作の動機とプロセスになっています。

写真を撮る理由はとても私的なものです。
しかし一枚の写真の中に写っている世界はまぎれもなくパブリックであって、決してそれ自身では私的になりえません。
それでは何が私 的な写真と言えるのだろうか。
僕は撮影者とその写真の関係性によってのみ、その写真は私的になり得るのだと思います。

そして僕は二つの対極な世界の狭間にぶらさがるように、時にはメトロノームの針のように行ったり来たりを繰り返すのです。



寅吉

去年の8月の後半だった。
港北の家具屋にソファを見に出かけた。
前に使っていたものは古かったし、ダニが発生して捨ててしまったから。
今回はダニがつかないように革のソファにしようと思って物色した。
しかしとうとう何も買わず店を出た。まだお昼過ぎだったので、時間を持て余してしまい、前から行ってみたかった千葉の富津岬に行く事になった。

道中、こじんまりとした商店街のパン屋さんに寄って、ソーセージパンとアンパンを買った。富津岬にはしっかりとした鉄骨の展望台があり、そこから東京湾を一望できる。
観光客もパラパラといた。

しばらく海を眺めた後、車を東京に向けて走らせた。
富津公園を抜けて、右折するはずだった道を曲がり損ねてしまった。
代わりに一本隣の道を右折した。
住宅街の間の道であまり車通りは多くない道だった。

先に目を向けると茶色い紙袋が落ちていた。
そのまま真っ直ぐに通り過ぎようとすると助手席の妻が「猫!」と言った。
僕はすぐにスピードを緩めて道路に目をやると、さっき紙袋に見えたものが実は茶トラの猫だった。車が近づいても全然動こうとしない。
路肩に車を止めた。

その猫は僕と妻にすり寄って来て「ミャー!ミャー!」と鳴きながら、頭突きをして来た。相当お腹が空いているらしい。
さっきソーセージパンを買ったのを思い出した。

車に戻ってソーセージパンを取り出し、ソーセージをパンから引っこ抜いて猫にあげてみた。猫はすぐに一本食べてしまった。
体はガリガリに痩せていて、骨が透けそうなくらいだった。
目は目やにだらけで、左目には傷があり白っぽく濁っていた。

通りかかった近所のおばあちゃんにこの辺の猫かと聞くと「知らないわ。この辺捨て猫多いからね。」と言ってほとんどその猫にはほとんど目をやらず行ってしまった。
車に戻ろうとしたが、とても可哀想に思えてきた。
このままにしたらきっと死んでしまうだろう。

せめて餌を十分にあげて病院で薬をもらって体力が回復するまで面倒をみよう。そう思い、猫を抱き抱え車にのせた。暴れたりせず素直に助手席のシートの上に収まった。
そして、猫と呼ぶのも何だからこの猫を“寅吉”と名付けた。

車の中で寅吉は妻の膝の上で寝ていた。
相当体力が消耗していたんだろう。
よく見ると体のいろんなところに傷があった。
ノミが走り回るのも毛の中に見えた。

東京湾アクアラインから首都高2号目黒線を通り目黒インターで降りて、先ほど携帯で調べた家の近所の動物病院に直接向かった。
病院では犬を連れたおばさんと猫を連れたおばさんが診察待ちをしていた。

診察台に乗った寅吉からは、大量のノミの糞や死骸がどっさりと落ちた。
きっと寅吉の毛の中には数十匹はいただろう。

病院の先生が「拾って来たのは良いんですが、これからどうするんですか?」と聞いた。
思わず「飼います。」と言った。
先生は「飼ったとして体力が回復しても、何らかのウイルスに感染してるかもしれないし、幸せな猫生は送れないかもしれません。」と言った。
寅吉は2.6キロしかなかった。健康な生猫は4~6キロくらいはあるだろう。

餌やトイレやおもちゃに首輪を一通り買って来て、その日から寅吉を看病した。
カリカリは硬くてあまり食べられないようだったので、パックに入っている柔らかい餌を電子レンジで少し温めると食べた。水を飲むとアゴがびしょびしょになっていた。
1週間くらいして血液検査の結果が出たと電話が来た。かなり不安だった。
しかし、寅吉は猫エイズなどの悪性ウイルスに感染していなかった。僕は安心した。

1日の大半は寝ていておもちゃにも無反応でほとんど動かなかった。
鼻が詰まっているせいか、いびきが人間にも負けないくらい大きかった。

3ヶ月くらいすると、だんだんと体重が増えて来て、元気で活発な猫になった。
2回のシャンプーと薬でノミもいなくなって、皮膚の痒みもなくなってきた。
目に疾患がある寅吉はご飯を食べると今も涙が出てしまって、すぐに目やにや鼻くそがたまってしまうのだが、それもまた可愛い。

寅吉には立派な“たまたま”が付いていて、僕も妻も後ろ姿が愛くるしいと思っていた。
そしてそれは自然体なので、できれば去勢はしたくないと思っていた。しかし、家の中で飼うとなればやはりそれは難しい事であった。外に放し飼いにするという事も何度も考えた。

実は僕が猫を拾ってきたのはこれが2回目だ。一度目は小学生の頃。公園でダンボールに入って捨てられていた子猫の姉妹を2匹拾った。長毛の1匹はお向かいの子供のいないご夫婦が飼うことになった。短毛のもう1匹はうちで飼った。20数年前の郊外という事もあって放し飼いで飼っていた。僕はその猫を心底可愛がっていて、学校から帰るとよく遊んだ。しかし、何年かして突然、いなくなってしまった。健康な猫だったので多分交通事故にでもあってしまったのだろう。

放し飼いにすると、猫たちは生きるためにはしなくても良い喧嘩をすることになる。縄張りを守るため喧嘩をして体力を消耗し怪我もする。傷口から病気に感染してしまったりする。
人間に虐められたりもする。僕は小学生の頃、神社で近所の子供たちに囲まれて砂をかけられている子猫を助けた事がある。あの時は子猫の目に大量の砂が入って、目も開かなくなってしまって大変だった。あの子猫の表情を今でも鮮明に覚えている。それに今のご時世では猫が人の家の庭でおしっこでもしてしまったらきっと問題になるだろう。
そんなことを思っていると放し飼いにする事のメリットを見つけられなかった。
家で飼うにはやはり去勢は必要だと思った。さかりのシーズンには本能で外に出たくなってしまうからだ。考えた末、寅吉には申し訳ないが、全ては寅吉が長生きするためだと思い、去勢をすることになった。手術は無事に成功した。

今振り返ると、うちに来た頃は静かでおとなしい猫だと思っていた寅吉だが、ただただ衰弱していただけなんだと思う。もしかしたら本当に生命の危機が迫っていたのかもしれない。今はうるさいくらによく遊び、よく食べる。家に帰って玄関を開けると必ず寅吉が伸びをしながらすり寄ってくる。

寅吉を拾った後、台風19号が関東甲信越を直撃し、富津市も大変な状況になった。
ニュースを見ながら地元の方々の生活を心配すると同時に、寅吉の仲間や兄弟の心配をして止まなかった。この年もいつにも増して暑かったし、少し涼しくなってきたと思えば台風がやってきて、寅吉もきっと餌にもありつけず、大変だったと思う。そして仲間は今現在も大変であろう。

一般的に人間社会では“たかが猫”と片付けられがちではないか。
しかし、彼らは多大な生命のエネルギーに満ちていて、言葉ではうまく言い表せないが、人間を幸せにする不思議な力を秘めている。

この無垢で純粋で生きることに全力の生き物をのたれ死なせてしまう手はないと、“寅吉”という小さな命を通じて日々感じている。



裏山

裏山というのにはまだ新しい森の中を父と歩いた。
その裏山の自然は冷たく、そしてどこかあたたかかった。

ほとんど父と一緒に生活したことのない僕にとって父の家は不思議な場所だ。
家族の住む家なのに自分の居場所の感じがしない。
けれども他人の家に招かれた時のような背筋が伸びる感じもしない。

例えて言うなら行き慣れた喫茶店のような感じだ。親しみはあるがどことなく緊張感もある。

長野県の茅野という場所は縁もゆかりもない場所だった。父が引っ越すまで地名すらも聞いたことがなかった。おそらく父の家がなかったら一生行くこともなかったかもしれない。世の中のほとんどの土地がそうであるように。
自分が生涯で接点を持つことのできる土地はこの星に数えられるくらいだろう。

裏山は表に家か何かがあって初めて裏山と呼ばれる。
表がなければ裏山にはなれず、ただの山だ。それも縁もゆかりもないただの山。
そんな山々の中で何かの縁で自分にとって裏山となった初めての山。

僕はその裏山に愛着を持った。
今はまだ慣れないがきっといつかとても親しみのある大切な山になるだろう。
そしていつかまたこの山を歩く時にはきっと懐かしさを胸に抱く。

裏山というのにはまだ新しい森の中を父と歩いた。
その裏山の自然は冷たく、そしてどこかあたたかかった。



Personal Matters Volume 2

僕は写真を撮る事で大事にしていることの一つが「続ける」という事です。日々何気ない日常の中にある慣習を続けるように、写真を撮る事を続ける。それが正解か不正解か、良いか悪いか、と考える事から一度遠ざかってみる。そのようなことは後々分かってくる事だから、ただただ、続ける。そして、それによってできた塊を振り返ってみた時に、自分のことや社会のことについて新しい発見や改めて気づかされることがある。
そのような自分を見つめ直す写真行為を「Personal Matters(私事)」という一つのシリーズ作品として表現しています。
僕の「私事」があなたの「私事」を振り返るきっかけとなり、今を生きる僕とあなたの間に目には見えない繋がりが生まれる事を切に願っています。



Deep Blue – Serena Motola

暑くも寒くもない天気。
城ヶ島はいつもと変わらない様子で水は岩に繰り返し打ち付けていた。
観光客もまばらで、海岸までの道に並ぶ店に人はあまり入っていない。
制服はヨットの帆のようにバタバタとなった。
遠くに見える水平線と青い空。
岸壁の下には青と紺の混ざったような色をした海が広がった。
そこに立つ人と、その後ろに佇む景色との重なりを、写真に撮った。
色々な偶然が重なって、今を生きる私たちが、この日ここに居たことをいつか振り返える時の事を思った。
未来と過去が重なった時、写真の本質に少しだけ触れられた気がした。


後書き (Deep Blue – Serena Motola)

(1) 地形

城ヶ島は神奈川県三浦半島の南端にある島だ。
僕は以前からこの地形の持つ力強く魅惑的な雰囲気が好きだった。
この島は軍事的にも文化的にも重要な役割を担ってきたそうだ。現在では釣りや散歩をする地元の人々や観光客で賑う。
僕はこのような「人が集まる地形」に興味を持っている。海外(例えば学生時代に住んだイギリス)ではブライトンやブラックプールのビーチ、最南端の街ペンザンスのランズエンド(地の果て)などがそうだ。ランズエンドはまさに自然というのにふさわしい壮大な崖。あそこに立って水平線を見つめていると、自分なんて消えてなくなっても何も変わらないとさえ思えてくる。イギリスに住んでいた学生の頃からそういった場所に足を運ぶのが好きだった。そういった地形には人を引き寄せる神秘的な力がある。言葉でその魅力を伝えることはとても難しいが、その土地に行けばきっと何かを感じられる。その何かが人間の第六感のような動物的な部分なのではないかと僕はよく考える。そういった感覚は多分誰にでも備わっていて、休みの日になるとその感覚に従ってその地形に足を運ぶのだろう。何をするわけでもなく、ただ、足を運ぶのだ。
僕はその動物的習性と写真家の持っている「撮りに行きたいという衝動」は似ているのではないかと思う。あらかじめ用意された目的に準ずることもあるだろうが、結局のところ潜在的に欲する部分が大きいのではないだろうか。

(2) 学生服

「学生服」と聞くとどのような言葉が思い浮かぶだろう。僕は学校、友達、校則、放課後、部活、先輩、後輩、下駄箱、遠足、ブレザー、ワイシャツ、自転車、バイト、初恋、告白などが思い浮かぶ。どれも時代が変わっても、変わらない普遍的なもの。学生服を着ていた人達が年を重ねても、学生服に対するイメージは思い出の一片とともに、変わらないのだ。
10代が過ぎ大人になると、学生服と聞いてまず思うことは自分とは関係のないものだろう。学生服を着ている学生は学生服を着ているいうことは明白だし、それは彼ら自身にとってもある種のアイデンティティーのようなものになっている。又は、周りがそう決めつけてしまっているだけかもしれない。どちらにせよ、その時代を生きている人たちの大部分は学生服となんらかの結びつきがある。学生服にはその年代の人々にしかすることができないことや考えや思いをそれ以外の世代の人々が想像するきっかけになりえる魅力があると思う。
自分のアトリエの近くには、女子中学校がある。いつもだいたい決まった時間にそこに通うきちっと制服を着た女子学生たちは楽しそうにアトリエの前を通り過ぎていく。彼らを見ていると、自分がそのくらいの年齢だった時を思い出すし、今となってはそれが少し信じられないことのように思うこともある。その時の自分が、考えていたことや、悩んでいたことや、楽しかったことを思い出したりもする。

(3) 暗室

プリント作業は写真をネガから紙の写真にするためのものではない。プリント作業は2度目の撮影だ。それは暗室で撮影の日のことを想い返し、この写真を撮った時はこんな話をしたとか、この時強い風が吹いたなとか、その日のこと、その人のことを思い返す時間だ。 プリントの時間は長ければ長いほど良い。それだけその写真の事を想い、その写真と、その被写体と長く過ごしたのだから。大事な撮影に向かう前はそれだけ長い時間をかけて、撮影の日の事を想像する。プリントもそれと同じ。だから失敗したってやり直せば良い。その過程の中で、編集のヒントも生まれることもある。失敗も決して無駄ではない。

(4) カメラ

カメラと写真家の関係は面白い。写真家なら多かれ少なかれ、自分の使っている道具(=カメラ)に愛着を持っているだろう。カメラと写真家には一定の信頼関係があって、この被写体には「こいつだ」みたいな風に選びもする。モトーラさんはオリンパスペンのハーフサイズで撮影した。ペンのハーフサイズは自分が高校生の頃に制服を着たクラスメイト(クラスには男子しかいなかったのだが)を撮るのに使っていたカメラだ。フィルムはトライXを入れていた。放課後に部室で現像してプリントするのだ。ペンはピントが目測で使い捨てカメラのような使い方ができる。ファインダーを目の前に持ってきたら迷わずシャッターを切るのみのカメラだ。じっくり構図を考えながら使うようなカメラの作りではない。直感的なカメラだ。学生の頃、授業中にカメラをいじくっていたら、先生に「蓮井!」と怒鳴られた。しかし、怒られるのかと思ったら先生は「そうだよ!男は道具で生きていくんだよ!」と諭された事があった。確か先生は国語の先生(道具は多分使っていない)だったような…。今思い返せば「男は」というところがちょっと古い考え方のような気はするのだが。今だったら「男も女も道具で生きていくんだよ!」だろう。当時は少なからず認められた気がして、自信はついたので先生には感謝している。 よく「道具は使いよう」だと言うけどその通りだ。写真ではカメラが絵を決めているとも言える。被写体との距離感も、コミュニケーションにおいての間合いやリズムのとり方もカメラによって微妙に異なる。ハーフのペンは35ミリの半分だから荒く、ピントもいい加減な上、50年くらい前のモノだから光線漏れしたりゴミが映り込んだりしてしまう事があるが、力まずに撮れる。深い精神論を語らうよりは、他愛のない天気の話なんかをするように。同じレンジファインダーでもしっかり撮りたくなるライカなんかとはまるで違う。

(5) モノクロと誤差

『Deep Blue』はモノクロで撮りたかった。僕は昔からモノクロ写真を見ると無意識に色を想像してしまう。10数年前に恵比寿の東京都写真美術館でエルスケンの『セーヌ左岸の恋』の展示を観た。それから何年か後、その展示をふと思い出した時があった。そして『セーヌ左岸の恋』の写真集を買いに行った。展示を観た時には色の印象が確かにあったのだけど、写真集を観てその写真が全てモノクロだった事に少し違和感を感じた。当時はパリにも行ったことがなく、パリの色なんて分からなかったのに、自分で勝手に想像していたのだ。写真に色がついているって、少し答えを先に言っちゃってるのかもしれない。モノクロは見る側が勝手に答えを探せる感じがする。海の青の濃淡も岩肌や空の色も。写真がデジタルになってからモノクロで撮影する選択肢が減った。カラーが当たり前になり、自由に想像する楽しさを少し忘れてしまっている気がして、実は海や空の青さを伝えたかったんだけど、あえてモノクロで表現した。表現できてるかどうかは写真を見る側の感性に委ねているのだけど、写真にはそういった見る人と作る人の間に誤差があるものなのだと思う。
誤差といえば、撮る人と撮られる人の間にも誤差はある。気持ちの誤差もあるし、物理的な誤差もある。写真を撮る時に向き合った相手はこっちを向いてるのだから、シャッターを切った瞬間に見ている風景も違う。同時に同じところを見て同じ事を想っていないっていう。すごく当たり前の事だけど、みんなそれぞれ違うし誤差があるから面白い。向こう側からこっちの景色はどう見えてるんだろう、何を想っているんだろうって想像する。